1939(昭和十四)年8月9日、小林太郎上等兵は宇品港に上陸。翌日京都梅小路荷物駅に到着して国家斉唱に迎えられた後、七条通りを東へ進み、師団街道(京都駅と第16師団司令部を結ぶ軍用道路)を南に進んで司令部兵舎へ帰還。14日の除隊式を了えて15日に正式除隊、善行証書(成績優秀かつ品行方正と認められた下士官・兵士に与えられた)を授与される。山中が野戦病院での療養を無事乗り切って快復していればたどったかもしれない小林のその後の足どりである。
兵士小林太郎の従軍日記はここで役目を終え、存命中に公表されることはなかった。
山中貞雄の戦病死は小津安二郎をして「詮ない事だがあきらめ切れぬ程に惜しい男を失した」と言わしめた。
しかしながら、もし山中が小林上等兵とともに無事帰還し映画界に復帰していれば、戦後の小津安二郎のフィルモグラフィはまったく異なる様相を見せていたに違いない。たとえば、小津映画でしばしば重要な役割を担う未帰還兵(『麦秋』の紀子=原節子の亡兄、『東京物語』の紀子=原節子の亡夫)は、山中が生還していれば創造され得なかった人物である。
ことに私がひとり勝手に「山中十三回忌記念映画」と呼んでいる『麦秋』は、紀子の兄の不在こそがその核心となっている。兄すなわち山中が従軍した徐州戦を想起させる最終盤の麦畑。その中を進む花嫁の列にレクイエムがかぶさっていく光景は、『麦秋』が山中の魂に捧げられたことを明白に物語っている。『麦秋』は山中が幸運にも日中戦争を生き延びていたなら生まれ得なかった映画なのである。それほど山中の死は小津に埋めようのない欠損感をもたらした。小津の戦後の映画づくりの原動力となったのはまさにその欠損感だったのである。
記録映像『日中戦争』に写った無精髭の兵士ははたして山中貞雄だったのか・・・・その確証は得られなかったけれども、少なくとも山中が戦線のそこかしこで報道キャメラマンに出会ってニュース映画に収まった可能性はあるかと問われれば、それは大いにあり得た、というのが「小林日記」「加藤本」「千葉本」などの記述から得た私の見解である。
「千葉本」の著者・千葉伸夫氏も「ニュース映画に戦地の山中貞雄が映っているという説があるが、確認できなかった」と書いておられる。千葉氏のご覧になったフィルムが玩具映画ミュージアム提供のフィルムと同一のものだったかどうかは存じ上げないが、山中が撮影された可能性を秘めたフィルムはこれひとつではないとの思いも捨てきれない。そうした第二第三のおもちゃ映画『日中戦争』がいずれどこかで発見され陽の目を見ることを切に願うばかりである。
本日2026年9月17日は山中貞雄没後八十八回目の命日にあたる。合掌。
(完)