キネマの都・チャンバラ時代(エイジ)の狂詩曲(ラプソディ)~第七十景 

フィルムの残骸

 八尋不二の他界に五年先立つ昭和五十六(一九八一)年、大河内傳次郎とともに時代劇映画全盛期への扉を開いた伊藤大輔も鬼籍に入った。片岡千恵蔵と同じ御室蓮華寺に眠る伊藤のもとに、没後ちょうど十年にあたる一九九一年、朗報が舞い込んだ。『忠次旅日記』の三十五ミリ・プリント八巻が広島で発見されたのである。

 腐食して劣化の激しかったそのプリントはフィルム・センターに持ち込まれて慎重な修復作業が施され、翌年には一般公開された。現在見る事のできるのは『信州血笑篇』の一部と『御用篇』のかなりの部分を含み字幕を補った修復版(約九十分)である。

 戦前の当時、映画は通常一週間の封切り期間を終えると二番館、三番館へとフィルムが巡回していき、都市の盛り場から場末、地方都市へと製作会社ごとの系列館にブッキングされておおよそ半年もすれば磨耗が進んで疵だらけになり、フィルムそのものの寿命が尽きた。当時はフィルムを保存するなどという発想はなく、可燃性だったこともあって順次ジャンクされて廃棄された。特に無声映画のフィルムはトーキー映画の普及に伴って不用品扱いされるようになり、軍需品のニトロセルロースが原料だったことや国産フィルムが希少で高価だったことなどから、使用済みフィルムの乳剤を洗浄―つまりフィルムに写っていた映像をきれいさっぱり洗い流し感光乳剤を塗り直して再利用にまわすという何とも荒っぽい処置が行われたのである。日本の無声映画フィルムの大半が失われ、後々取り返しのつかない損失を招いてしまった理由のひとつはここにある。『忠次旅日記』三部曲のプリントもおそらく他の多くの作品同様このような末路を辿ったのだろう。

 伊藤自身も生前語っている。

 「(第一部の)『甲州殺陣篇』はありませんよ。三部作の再編集をしたときに捨てっちまいましたから。残ったのは(第二部の)『信州血笑篇』と(第三部の)『御用篇』だけです」

 しかしながら、大河内傳次郎の研究家梶田章によると、『忠次旅日記』は伊藤大輔×大河内傳次郎の人気作『新版大岡政談』(全二十四巻)などとともに、無声映画時代の終り頃まで毎年興行の閑散期には恒例のように上映されていたという。しかも『甲州殺陣篇』を含めた全二十八巻が昭和十六(一九四一)年の秋までは日活に保存されていたらしい。にもかかわらずネガ・フィルムの総てが失われてしまったのは、対米英戦争の開戦とともに軍需品供出の圧力がかかっていたからとも考えられる。ちょうどその頃、日活は国策会社・大映に統合されることが決っており、国策会社である以上国の意向に従わないわけにはいかない事情があったのかもしれない。国宝級ともいえるフィルムに対するこの余りにぞんざいな扱いは、この国の映像遺産というものに対する終始一貫いいかげんでデタラメな姿勢を端的に物語っているのではないだろうか。

 評論家滝沢一の証言によれば、昭和二十年代の後半頃、伊藤自身が再編集した約二十巻の総集編(『甲州殺陣篇』を除く『信州血笑篇』と『御用篇』で構成された版)が京都の映画館で上映されていた。その後『忠次』のプリントは忽然と姿を消し、伊藤のオリジナル撮影台本も編集の際に現像場に渡ったまま行方不明になってしまった。だから、もはや『忠次』はそれを実際に見た者の記憶の中にしか存在しないと思われていた。そんな中でのプリント発見はたとえ不完全な形にせよ、他の多くの失われたフィルムに対する淡い期待をつなぎ止めるに充分な事件だったといえる。

 実際、『甲州殺陣篇』の冒頭部分(一分七秒)はじめ剣劇映画の断片映像がその後相次いで発見されている。その多くはトーキーの到来とともに映画館で掛けられることのなくなった無声映画の三十五ミリ・プリントが数十秒から数分程度の短い尺に裁断されて販売されていた「玩具映画」と呼ばれるものだそうである。

 「玩具映画」は徹頭徹尾映画をしゃぶり尽くす商いの手法として編み出されたが、映画を個人で所有し見て楽しむという二次利用を目的に販売された点からすれば現代のヴィデオ映像の原点ともいえるし、さらに遡れば、横田永之助が子どもたちに売り捌いていた上映済みプリントのひとコマひとコマをも想起させる、いわば映画の〈残骸〉ともいえる。そんな〈残骸〉たちがひょっとしたら今もなおあちらこちらに眠っていて、いつか発見されるのを待っているかもしれない。

キネマの都・チャンバラ時代(エイジ)の狂詩曲(ラプソディ)~第六十九景 

八尋不二、筆を折る・その二

 時代劇の主戦場はテレビへと移った。東映が時代劇映画から撤退し始めた昭和三十八(一九六三)年頃は、まさにテレビ時代劇の勃興期、隆盛期にあたる。この年、NHKは大型時代劇と銘打って『花の生涯』を放送、これの好評を受けて翌年には長谷川一夫を主演に迎え『赤穂浪士』を製作、以後いわゆる大河ドラマと呼ばれる時代劇番組がブラウン管のゴールデンタイムに定着していく。

 大河ドラマに先行してテレビ時代劇の流行に先鞭をつけたのは、ともに昭和三十七(一九六二)年放送の『三匹の侍』と『隠密剣士』である。『三匹の侍』の演出者五社英雄は、立ち回り場面で丹波哲郎平幹二朗の振り下ろす刃のビューッという音や、ブンブンと空を切る長門勇の槍の音、肉を斬り骨を砕くザクッ、ブスッといった擬音を効果的に使って視聴者を喜ばせた。『隠密剣士』は牧冬吉扮する忍者の曲芸的な立ち回りや手裏剣が柱や壁にピシッ、コンコンと突き刺さる特殊効果などが子どもたちにも受けて、同時期の『忍びの者』シリーズとともに空前の忍者ブームを牽引した。

 しかし所詮小さなテレビ画面の中でのアクションや立ち回りは見劣りがする。しかも毎週放送となれば製作に時間的なゆとりもない。次第にテレビ時代劇は『水戸黄門』や『遠山金四郎』、『大岡越前』、『銭形平次』などお上のご威光を体現する天下正道の番人ともいうべきキャラクターたちが毎回事件に遭遇し、絶対的な強さと権威でもって最後には悪漢たちを平伏させてメデタシメデタシ、というパターン化された筋書きに流れていく。毎回繰返される同工異曲の展開と予定調和の結末は視聴者にとってはある種の居心地の良さに通じ、勧善懲悪のマンネリズムに浸る安心感こそがテレビ時代劇の持ち味になっていく。

 『素浪人月影兵庫』(昭和四十年)も主人公の浪人(近衛十四郎)が毎回旅先で遭遇する事件を解決していく点では常套的な展開だが、気ままな風来坊の使い手がひょんなことから堅物のやくざ者(品川隆二)と旅をするという弥次喜多道中記的なタッチが天下の副将軍や町奉行、目明したちが主役のドラマとはちょっと違う味わいで人気を呼んだ。

 もともと戦前の大都で活躍した時代劇スター近衛は、大都が日活、新興と統合されて消滅すると映画界を離れ、多くの時代劇役者同様に一座を旗揚げして実演の地方巡業に出た。大映には阪東妻三郎片岡千恵蔵嵐寛寿郎市川右太衛門という大物スターたちが揃っていた上に、もはや映画界には時代劇を製作する余力が残っていなかったからである。戦後、十年のブランクを経て映画界に復帰した近衛は、新東宝嵐寛寿郎の絡み役を務めた後、松竹京都で高田浩吉の敵役を演じるうち注目されて主役への復帰を果たす。しかし松竹の時代劇は振るわず、昭和三十五(一九六〇)年東映に移籍。ここでようやく当たり役となる『柳生武芸帳』シリーズ(昭和三十六~三十九年)に出会う。

 当時、各撮影所の殺陣師はこぞって近衛の立ち回りを高く評価し、最も脂の乗った剣戟俳優として彼の名を一番手に挙げたという。しかし、入社わずか数年で東映は時代劇から撤退、近衛はテレビ界に活路を求める。そこで出会ったのが『素浪人月影兵庫』だった。近衛はこの時すでに四十九歳、年齢的にはとっくに盛りを過ぎていたが、なお技の冴えと凄み、剣客の風格を漂わせながらもオカラに目がないという憎めないキャラクターを演じて遅まきながら人気者になった。二年後には『座頭市血煙り街道』に出演、勝新太郎との死闘で見ごたえのある立ち回りを披露する。昭和五十二(一九七七)年死去。

 高度経済成長に翳りの見えた一九七〇年代初めに登場したのは『木枯し紋次郎』と『必殺仕掛人』(ともに昭和四十七年)である。

 『木枯し紋次郎』の主人公は孤独な旅に身をやつす渡世人である。世間に背を向け「あっしにはかかわりのねえことで」とうそぶく紋次郎のニヒルで醒めた台詞は政治の季節が過ぎ去った後に広がった無気力でシニカルな世相ともマッチし、反体制・脱体制を志向する視聴者の心情に響いて大流行した。

 『必殺仕掛人』は『木枯し紋次郎』と同じ年、わずかに遅れて始まった。主人公の仕掛人たち(緒形拳藤枝梅安林与一の西村左内、山村聡の元締・音羽屋半右衛門)は「生かしておいては世のため、人のためにならねえ人」(第一話『仕掛けて仕損じなし』での音羽屋の台詞)を懲らしめ成敗することを裏の稼業とする。思うに、世間には善人面をした悪党どもが闊歩し、カネと力に飽かせた奴らの悪行が罪に問われることもない。仕掛人たちは悪党どもの所業に泣き寝入りするしかない無力な者に代わって殺しを請け負い、「はらせぬうらみをはらし、許せぬ人でなしを消す」(タイトルバックに流れる睦五郎のナレーション)プロの殺し屋である。次々繰り出される必殺技の魅力もさることながら、悪党どもに対する強い〈憤怒〉をモチベーションとした〈始末〉の浄化作用が視聴者を惹き付け、続く『必殺仕置人』など後々まで続く人気シリーズの端緒になった。

 『木枯し紋次郎』のカラーを決定付けたのは市川崑、『必殺仕掛人』の場合は深作欣二三隅研次といった第一線の映画監督だったが、何より長年京都の撮影所で時代劇映画づくりに携わってきた技術スタッフたちの貢献が大きかった。美術の西岡善信、撮影の森田富士郎宮川一夫、監督の森一生三隅研次池広一夫、安田公義、工藤栄一らは「京都の映画の灯を消すな」を合言葉に、大映倒産の翌年(昭和四十七年)、映像京都を設立。劇場用映画では『竜馬暗殺』(昭和四十九年)、『利休』(平成元年)、『御法度』(平成十一年)、『どら平太』(平成十二年)など約五十本、テレビでは『木枯し紋次郎』の他、『鬼平犯科帳』シリーズにも協力し時代劇映画の孤塁を守った(二〇一〇年解散)。

 

 昭和六十一(一九八六)年、八尋不二は亡くなった。享年八十三歳。生涯にものした脚本はおよそ五百本、その大半が時代劇だった。『山椒大夫』で溝口健二に注文をつけられると「あれで出来ないなら、依田(義賢)に書かせなさい」とつっぱねた頑固者の八尋は、マキノを振り出しに、河合映画、新興キネマ大映と渡り歩いて業界に知己の多い脚本家だったが、葬儀に参列した映画人は思いのほか多くなかったという。もはや時代劇映画は遠い過去のものとなり、その全盛期を支えたカツドウ屋たちの多くは鬼籍に入っていた。マキノ脱退の際、絶縁状を叩きつけた相手の片岡千恵蔵は三年前(一九八三年)に亡くなって今は御室蓮華寺に眠っている。鳴滝組最後の生き残りでもあった八尋に残されたのは長寿を全うしたことの勲章だったのか、はたまた孤独の憂愁だったのか・・・・

 東山区五条橋東の大谷墓地に埋葬された八尋は同じ墓地に眠る大河内傳次郎にひょっとしたら冥土で出くわして、今頃喧々諤々時代劇映画論を闘わせているかもしれない。頑固者と謹厳実直居士のふたりならありそうなことである。しかし結局最後に大河内は強い九州訛でこう呟くのではないか。

 「私も若かったけれど、八尋さん、アナタも若かったねえ」

キネマの都・チャンバラ時代(エイジ)の狂詩曲(ラプソディ)~第六十八景 

八尋不二、筆を折る・その一

 昭和三十九(一九六四)年、東京オリンピックで日本中が沸き立つ頃、八尋不二の仕事はめっきり減っていた。その頃八尋が長年仕事場にしていた大映では、『忍びの者』シリーズ(昭和三十七年~)や『眠狂四郎』シリーズ(昭和三十八年~)の市川雷蔵と『座頭市』シリーズ(昭和三十七年~)などの勝新太郎を両輪に時代劇映画の製作が依然フル回転で続いていた。しかし、GHQによる対日占領政策の終了とともに到来した時代劇映画第二の黄金時代は意外に短かった。その大きな要因は言うまでもなく、昭和二十八(一九五三)年に始まったテレビ放送である。

 テレビ受像機の普及が進むと、これに反比例して映画館の入場者数は凄まじい勢いで減少、昭和三十三(一九五八)年に最多の観客動員数(十一億二千七百四十五万人)を記録してからわずか五年でその数は五億一千百十二万人にまで半減する。産業としての映画は急坂を転げ落ちるように栄光の座から滑り落ち、気がつけば落日の気配が漂っていた。製作コストの高い時代劇映画の凋落は特に顕著で、製作本数が激減。したがって八尋のような時代劇畑のヴェテランは出る幕がなくなったのである。昭和四十四(一九六九)年に雷蔵が三十七歳の若さで亡くなったのは象徴的な出来事だった。雷蔵の死によって大映の経営状況は一段と悪化、その二年後には倒産し、日活太秦以来の伝統を受け継ぐ大映京都撮影所は閉鎖された。

 市川右太衛門片岡千恵蔵の両雄を擁して戦後時代劇映画の王城に君臨していた東映は、昭和三十五(一九六〇)年に第二東映を発足させるなどして本格的な量産体制に突入していたが、黒澤明の『用心棒』(昭和三十六年)、『椿三十郎』(昭和三十七年)の登場でたちまち顔色を失った。チャンバラ映画研究家の永田哲朗によると、その衝撃の大きさは「ペチャンコにやられました」(加藤泰)とか「もう時代劇を作るのがいやになった」(ある監督)とまで言わしめるほどのレベルだった。黒澤の時代劇といえば『七人の侍』(昭和二十九年)、『蜘蛛巣城』(昭和三十二年)、『隠し砦の三悪人』(昭和三十三年)をすでに見ていたはずだが、その頃の東映時代劇は日本初のカラー・シネマスコープ映画『鳳城の花嫁』(昭和三十二年)を製作、中村錦之助東千代之介大川橋蔵たち若手スターの躍進もあって、黒澤怖れるに足りずの傲慢さ、鼻息の荒さがあったのかもしれない。ところが『用心棒』と『椿三十郎』は三船敏郎の豪快で目にも止まらぬ太刀捌きが最大の見せ場となる大娯楽チャンバラ、つまり東映時代劇と観客を奪い合う商品だったことが東映製作陣のショックを増幅したと考えられる。

 たとえば塵ひとつ落ちていないセットに明るすぎる照明の下で、白塗りメイクに煌びやかな衣裳を纏った主役が相も変わらず必然性に乏しい立ち回りで舞うようにバッタバッタと人をなで斬りにしつつ見栄を切り、しかも血糊の一滴が飛ぶわけでもない勧善懲悪劇や捕物帖―その非現実性とマンネリぶりに気付いた観客たちはたちまち東映時代劇にそっぽを向いた。「チャンチャン、バラバラの剣の舞いはテレビで見ればいいので、もはや舞踊的立ち回りの時代ではなくなった」(ある中堅監督)ことを自覚した東映は『十三人の刺客』(昭和三十八年、工藤栄一監督)や『大殺陣』(昭和三十九年、工藤栄一監督)などリアルで残虐な立ち回りを採り入れた集団時代劇へと転換を図り、時代へのアップデートをめざす。

 『鳥居強右衛門』(昭和十七年)以来十三年ぶりのメガホンとなった『血槍富士』(昭和三十年)で片岡千恵蔵に泥中での集団を相手にした壮絶な立ち回りを演じさせていた内田吐夢も『宮本武蔵』五部作(昭和三十六~四十年)の第四作『宮本武蔵一乗寺の決闘』(昭和三十九年)で武蔵役の中村錦之助に吉岡一門七十三人との壮絶な死闘を演じさせた。

 とはいえ、もはや時代劇そのものが製作コストに見合う観客動員力を失いつつあると悟った東映は任侠路線へと舵を切っていく。セットや衣裳に要する経費が相対的に安価で髷も要らない任侠ものは合理化の要請に叶うジャンルだったからである。そんな時期に登場した山下耕作監督の『関の弥太ッぺ』(昭和三十九年)や加藤泰監督の『沓掛時次郎・遊侠一匹』(昭和四十一年)は、まさに時代劇映画の黄昏を彩る茜色の奇蹟的残照ともいうべき趣をたたえていた。

(第六十九景につづく)

キネマの都・チャンバラ時代(エイジ)の狂詩曲(ラプソディ)~第六十七景 

それぞれの幕引き

 阪東妻三郎市川右太衛門片岡千恵蔵嵐寛寿郎の四大剣戟スターと入れ替わるように大映にやって来たのは長谷川一夫大河内傳次郎である。

 昭和十三(一九三八)年に起こった顔斬り事件の後、長谷川一夫は松竹から与えられた芸名を返上して本名を名乗り、傷も癒えた翌年の五月『藤十郎の恋』で銀幕に復帰。松竹京都撮影所で『雪之丞変化・三部作』(昭和十年、十一年)など林と長年コンビを組んできた衣笠貞之助もこの年東宝へ移籍したので、川口松太郎原作『蛇姫様』(昭和十五)を皮切りに撮影所を変えて二人のタッグが復活する。しかしいよいよ日中戦争が長期化・泥沼化して戦時体制が強まってくると時代劇どころではなくなり、長谷川は『百蘭の歌』(昭和十四年)や『支那の夜』(昭和十五)などで李香蘭山口淑子)と共演して大陸進出政策の正当化・美化に貢献するメロドラマの理想的なカップルを演じていく。

 映画の製作本数が激減する中、長谷川は昭和十七(一九四二)年に新演技座を発足させて衣笠貞之助山田五十鈴らとともに活動の軸を舞台に移し、戦争が終わると東宝と提携して映画製作に乗り出す。しかし、東宝ではGHQの民主化政策で生まれた労働組合側と経営者側との間に起こった争議が長期化・激化して混乱が続いたので、長谷川は先鋭化する争議団に反撥した「十人の旗の会」のメンバー(大河内傳次郎原節子高峰秀子、黒川弥太郎、藤田進、山田五十鈴入江たか子、山根寿子、花井蘭子)とともに東宝を離脱、争議団から分裂した従業員らを中心に設立された新東宝に参加する。昭和二十四年、多額の負債を抱えていた新演技座を解散して大映と専属契約を結び『平次八百八町』(昭和二十四年)を第一作とする『銭形平次』シリーズ全十八作や『地獄門』(昭和二十八年)、『近松物語』(昭和二十九年)などで新たな魅力を開花させて第二の黄金時代を迎えた。新演技座の負債を肩代わりしたのは永田雅一。因縁の永田が代表を務める大映の看板俳優となった長谷川は「昔、顔斬られた相手の会社で今度は仕事させてもろゥて、けったいなもんやなァ」などと言って、あっけらかんと笑ったという逸話が伝わっている。

 昭和三十八(一九六三)年、長谷川は『雪之丞変化』のリメイクで映画出演三百本記念映画となる『雪之丞変化』(市川崑監督)に出演、三百一本目の『江戸無情』を最後に長年活躍の場とした映画界を去る。大映時代劇の主役の座はすでに『雪之丞変化』で共演した市川雷蔵勝新太郎へと世代交代が進んでいた。しかしそれ以上に時代劇映画の終幕がすぐそこに来ていることを長谷川は知っていた。翌年にはNHKの大河ドラマ赤穂浪士』でテレビ時代劇に出演、昭和四十九(一九七四)年には東宝総帥小林一三が創設した宝塚歌劇に招かれて『ベルサイユのばら』を演出しヒットさせる。常に二枚目の主役であり続けたキャリアの最後を飾るに相応しい華麗な幕引きだった。昭和五十九(一九八四)年歿。

 長谷川一夫とともに大映専属となっていた大河内傳次郎は、長谷川が映画界を引退する前年の昭和三十七(一九六二)年、東京駅のプラットホームで倒れた。そのとき大河内はとっさにハンカチで自らの顔を覆ったという。戦後は黒澤明の『わが青春に悔なし』(昭和二十一年)や清水宏の『小原庄助さん』(昭和二十四年)など現代劇に活躍の場を広げ脇役もこなした大河内だったが、戦前からの大スターとしてぶざまな姿は見せたくないという矜持がそうさせたのだろう。

 もともと劇作家を志していた大河内は、牧野省三直木三十五と組んだ聨合映画芸術家協会の第二作『弥陀ヶ原の殺陣』の脚本も書くなど文学者肌で、哲学的な問答を好む謹厳実直居士の一面があった。競馬に熱中する長谷川に「賭け事はいけません。お止しなさい。勝っても他人様のお金を取ることになる」などと諌めたこともあったという。

 大河内は三十歳代の頃から嵯峨小倉山に山林土地を少しずつ買い求めては庭園造りに没頭し、約六千坪にも及ぶ敷地内に持仏堂、茶室、本館など後に大河内山荘と呼ばれる建物を建設。大河内が映画に出演するのはこの山荘の建設資金を得るためだとさえ言われた。大河内は撮影中に意見が衝突して気に入らないことがあると、気持ちを鎮めるためにこの山荘に篭もりしばし座禅を組んだ。そしてしばらく経つと棒の先にハンカチをくくりつけて窓からソーッと白旗を差し出し、何食わぬ顔で撮影に復帰したという。晩年すっかり明鏡止水の境地に至った大河内は、いずれは消えてなくなるフィルムというものに儚さを感じ、何か自分自身の生きた証を残したいと考えた。それが山荘だったのだろう。

 駅で倒れ病床にあった大河内を往年の盟友伊藤大輔が見舞うと、小康を得ていた大河内は「いや、今日はね、気分がいいもんだから」と言って床から起き上がり古いアルバムをめくって見せた。そして終生抜けることのなかった九州訛でポツリと呟いた。

 「私も若かったけれど、伊藤さん、アナタも若かったねえ」

 大河内が亡くなったのはその二日後だった。

キネマの都・チャンバラ時代(エイジ)の狂詩曲(ラプソディ)~第六十六景 

役者はカーテン、何度でも取り替えられる

 昭和二十(一九四五)年八月、盧溝橋での中国軍との衝突以来八年に及んだ戦争に日本は敗れる。進駐してきた米軍は連合国軍総司令部(GHQ)を設置して日本軍の武装解除と政治経済はじめ民生の全般にわたる対日占領政策を次々と打っていく。むろん映画もそうした占領政策の対象になった。

 GHQで映画政策を直接に担当したのは民間情報教育局(CIE)である。CIEの担当領域は教育制度・宗教から新聞・出版・放送などマスコミ、映画・演劇・美術・史跡など文化的な領域まで幅広かったが、映画に関してはまず「非民主主義的映画排除指令に関する覚書」を公布して、超国家主義的・軍国主義的・封建主義的思想を是認・称揚して国民を煽動するおそれありと判断された映画の上映禁止・焼却を指令、百三十六本がこれの対象になった。映画法は撤廃されたが、戦時中当局の統制と内務省警保局の検閲に悩まされた映画業界の前に今度はCIEという新たな壁が立ち塞がり、企画・シナリオに関する指導助言や完成済みプリントと再上映される戦前のフィルムに対する検閲を開始する。

 特に時代劇は日本の封建主義的な道徳観、非民主的な価値観を体現・称揚する表現形式と見なされて狙い撃ちにされ、主君への忠義・忠誠心を美化するもの、仇討を容認・奨励するもの、生命を軽視し、自殺(ハラキリ)を是認するもの、残虐非道な殺人描写(抜刀しての斬り合い)などを描くことは御法度となる。戦時中すでに青息吐息の状態だった時代劇はこれによって手足を縛られる格好となり、刀を奪われて立ち回りも許されなくなった剣戟スターたちの新たな苦闘が始まる。

 CIEの映画政策に特に大きな影響を受けたのは大映である。国策によって生まれた会社だけに戦時中に製作された映画は上映禁止措置の対象となるものが多く、新作の時代劇も厳しい制約下に置かれたので、四大剣戟スター(阪東妻三郎市川右太衛門片岡千恵蔵嵐寛寿郎)を擁することはそれまでとは逆に会社のお荷物になりかねなかった。そんなある日、永田雅一の口からこんな意味の発言が飛び出す。「役者などはカーテンと同じ、何度でも取り替えられる」。またこう放言したともいわれる。「古ぼけた時代劇のスターはもういらん」

 戦時には国の映画政策の率先旗振り役として地位を得た永田は、さすがに時流を読む才に長け機を見るに敏だった。昭和二十二(一九四七)年三月、菊池寛の退任を受けて社長に就任した永田は、翌年一月GHQから公職追放を宣告されると、追放の解除を猛烈にアピールしてわずか一年足らずでこれを実現。CIEの映画政策によって当分チャンバラ映画は下火になると見るや、ギャラの高い四大剣戟スターを「斬り捨て御免」とばかり整理にかかる。永田の発言に反撥した四人は相次いで大映を去る。

 阪東妻三郎は、終戦の年、大井川の渡し人足が捨て子を育てる人情譚『狐の呉れた赤ん坊』で新境地を開いた後、自由民権運動の闘士を演じる『壮士劇場』を経て『素浪人罷通る』(ともに昭和二十二年)に主演。八尋不二の脚本で伊藤大輔の戦後第一作となるこの映画の主人公・浪人者の伊賀亮は屋根の上に仁王立ちして路上に蠢く捕り方たちを見下ろすと、ふわり舞い降りて素手で、つまりチャンバラ抜きで捕り方たちと渡り合い、最後には堂々とお縄を頂戴する。御用提灯の波に向かって「どうだ」と言わんばかりに見得を切る伊賀亮の威風堂々たる姿は伊藤の往年の代表作『忠次』を髣髴させ、敗者にも誇りと尊厳があるのだという、反骨漢伊藤ならではの強いメッセージを感じさせた。翌年、妻三郎は『王将』でも伊藤とコンビを組んで棋士坂田三吉を演じ一世一代の名演と賞賛される。しかし大映は妻三郎との専属契約を解除、契約制に移行後契約を更新しなかった。

 活動の場を松竹に移した妻三郎は『破れ太鼓』(昭和二十四年)など現代劇に活路を見出す。勝手の違う現代劇に臨んだ当時の妻三郎の涙ぐましいまでの努力と奮闘ぶりを物語るエピソードが伝わっている。台本を受け取った妻三郎は巻物のような長い紙に台詞を書き出して玄関から廊下、居間の欄間、風呂場、便所にまでそれを貼り出して独特の発声で暗記し、すべてをアタマに叩き込むまでセットに現れなかった。そんな妻三郎も『王将』の続篇『王将一代』撮影中に高血圧症で倒れて中断。数年後に再度同じ役柄に挑むがまたしても倒れ、シリーズ未完のまま昭和二十八(一九五三)年七月七日、不帰の人となる。享年五十一歳、本名田村傳吉、惜しまれる死だった。

 片岡千恵蔵も現代劇に活路を見出した。遠山の金さんを演じられなくなった千恵蔵は、探偵がさまざまな人物に変装して難事件を解決していくというミステリー『七つの顔』(昭和二十一年)に主演。これがヒットして『多羅尾伴内・七つの顔の男だぜ』(昭和三十五年)まで十一本が作られる人気シリーズとなる。いかに変装の名人でもそれが千恵蔵であることは観客の誰もが百も承知、気付いていないのは登場人物たちだけという遠山の金さんと同じ設定はご愛嬌。そんなお約束の中で観客が待っていたのは「あるときは○○、またあるときは□□、はたしてその実態は・・・・」という千恵蔵のキメ台詞である。横溝正史原作『本陣殺人事件』の初の映画化『三本指の男』(昭和二十二年)でも、ソフト帽にスーツ姿という原作小説とはまったく違う現代風の金田一耕助を演じてこれもヒット、シリーズ化されて依然人気役者であることを立証した千恵蔵は、右太衛門とともに東横映画へ移籍する。

 東横映画はもともと東急電鉄(当時は東横電鉄)資本をバックに戦前に設立された興行会社だったが、戦後は映画製作への進出を企図。その推進役として満州映画協会の理事だった根岸寛一を招聘する。根岸は戦前、日活現代劇部の多摩川撮影所長として数々の傑作・力作を生みだす立役者となったが、かつて一時期根岸興行部が松竹傘下にあったことを理由に裏切り者のレッテルを貼られ、これを機に日活を退社。大陸に渡って満州映画協会の専務理事となり、理事長として赴任してきた甘粕正彦のもとで働くことになる。敗戦後は公職追放の処分を受けていたため代わりに製作部門を牽引できる人物として牧野満男に声を掛ける。根岸とともに大陸に渡った満男は満映の娯民映画部長を務めていたが終戦の二年前に内地へ戻り、その後はくすぶっていた。

 東横映画の製作部門トップに就いた満男は、さっそく満映からの引き揚げ映画人や旧マキノ(その中には満男の実兄正博もいた)、旧日活所属のカツドウ屋たちをかき集め、大映京都第二撮影所(現在の東映京都撮影所)を借用して製作をスタート。自社の配給網がなかったために当初はなかなか収益を得られず苦しい経営が続いたが、『いれずみ判官』『きけ、わだつみの声』(ともに昭和二十五年)が大ヒットするなどして徐々に業績を伸ばし、翌年大泉映画と東京映画配給を合併して東映京都撮影所を設立する。対日講和が発効し占領政策からの開放が近づくと、「もうええやないか、二三人斬ってみィ」という満男の伝説的な号令とともに時代劇の量産を開始。右太衛門の当たり役『旗本退屈男』の戦後版第一作『旗本退屈男前篇・七人の花嫁』(昭和二十五年)を皮切りに再スタートした人気シリーズや、『大菩薩峠』(昭和二十八年の渡辺邦男監督版、及び昭和三十二年~三十四年の内田吐夢版)の千恵蔵を軸に、中村錦之助東千代之介大川橋蔵ら若手スターの台頭もあいまって空前のチャンバラ映画黄金時代を築いていく。マキノ雅弘(正博改め)も自作『浪人街』のリメイク『酔いどれ八万騎』(昭和二十六年)をノー・ギャラで、しかもたった一週間で撮り上げて経営危機脱出に貢献した。それもこれも「喧嘩もしたがやっぱり兄弟の血」(雅弘)だったからだという。

 嵐寛寿郎大映との専属契約が切れるとフリーとなり、昭和二十五(一九五〇)年、綜芸プロを設立して並木鏡太郎や萩原遼中川信夫荒井良平、池田富保ら戦前からの仲間を集めて『右門』『鞍馬天狗』など当り役を演じながら四十四本もの作品を製作。その後宝塚映画を経て昭和三十一(一九五六)年新東宝に入社、翌年『明治天皇と日露大戦争』に天皇陛下役で出演して空前の大ヒットを飛ばす。新東宝が倒産すると再びフリーとなって東映工藤栄一監督『十三人の刺客』(昭和三十八年)に出演、千恵蔵や月形龍之介との共演は往年のファンを喜ばせた。その後も『網走番外地』シリーズ(昭和四十年~)や『緋牡丹博徒』シリーズ(昭和四十三年~)など東映仁侠映画で脇役として活躍。さすがにチャンバラ映画への出番はめっきり減ったが『神々の深き欲望』(昭和四十三年)、『男はつらいよ・寅次郎と殿様』(昭和五十二年)、『オレンジロード急行』(昭和五十三年)に出演、元気なところを見せた。昭和五十五(一九八〇)年歿。