役者はカーテン、何度でも取り替えられる
昭和二十(一九四五)年八月、盧溝橋での中国軍との衝突以来八年に及んだ戦争に日本は敗れる。進駐してきた米軍は連合国軍総司令部(GHQ)を設置して日本軍の武装解除と政治経済はじめ民生の全般にわたる対日占領政策を次々と打っていく。むろん映画もそうした占領政策の対象になった。
GHQで映画政策を直接に担当したのは民間情報教育局(CIE)である。CIEの担当領域は教育制度・宗教から新聞・出版・放送などマスコミ、映画・演劇・美術・史跡など文化的な領域まで幅広かったが、映画に関してはまず「非民主主義的映画排除指令に関する覚書」を公布して、超国家主義的・軍国主義的・封建主義的思想を是認・称揚して国民を煽動するおそれありと判断された映画の上映禁止・焼却を指令、百三十六本がこれの対象になった。映画法は撤廃されたが、戦時中当局の統制と内務省警保局の検閲に悩まされた映画業界の前に今度はCIEという新たな壁が立ち塞がり、企画・シナリオに関する指導助言や完成済みプリントと再上映される戦前のフィルムに対する検閲を開始する。
特に時代劇は日本の封建主義的な道徳観、非民主的な価値観を体現・称揚する表現形式と見なされて狙い撃ちにされ、主君への忠義・忠誠心を美化するもの、仇討を容認・奨励するもの、生命を軽視し、自殺(ハラキリ)を是認するもの、残虐非道な殺人描写(抜刀しての斬り合い)などを描くことは御法度となる。戦時中すでに青息吐息の状態だった時代劇はこれによって手足を縛られる格好となり、刀を奪われて立ち回りも許されなくなった剣戟スターたちの新たな苦闘が始まる。
CIEの映画政策に特に大きな影響を受けたのは大映である。国策によって生まれた会社だけに戦時中に製作された映画は上映禁止措置の対象となるものが多く、新作の時代劇も厳しい制約下に置かれたので、四大剣戟スター(阪東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎)を擁することはそれまでとは逆に会社のお荷物になりかねなかった。そんなある日、永田雅一の口からこんな意味の発言が飛び出す。「役者などはカーテンと同じ、何度でも取り替えられる」。またこう放言したともいわれる。「古ぼけた時代劇のスターはもういらん」
戦時には国の映画政策の率先旗振り役として地位を得た永田は、さすがに時流を読む才に長け機を見るに敏だった。昭和二十二(一九四七)年三月、菊池寛の退任を受けて社長に就任した永田は、翌年一月GHQから公職追放を宣告されると、追放の解除を猛烈にアピールしてわずか一年足らずでこれを実現。CIEの映画政策によって当分チャンバラ映画は下火になると見るや、ギャラの高い四大剣戟スターを「斬り捨て御免」とばかり整理にかかる。永田の発言に反撥した四人は相次いで大映を去る。
阪東妻三郎は、終戦の年、大井川の渡し人足が捨て子を育てる人情譚『狐の呉れた赤ん坊』で新境地を開いた後、自由民権運動の闘士を演じる『壮士劇場』を経て『素浪人罷通る』(ともに昭和二十二年)に主演。八尋不二の脚本で伊藤大輔の戦後第一作となるこの映画の主人公・浪人者の伊賀亮は屋根の上に仁王立ちして路上に蠢く捕り方たちを見下ろすと、ふわり舞い降りて素手で、つまりチャンバラ抜きで捕り方たちと渡り合い、最後には堂々とお縄を頂戴する。御用提灯の波に向かって「どうだ」と言わんばかりに見得を切る伊賀亮の威風堂々たる姿は伊藤の往年の代表作『忠次』を髣髴させ、敗者にも誇りと尊厳があるのだという、反骨漢伊藤ならではの強いメッセージを感じさせた。翌年、妻三郎は『王将』でも伊藤とコンビを組んで棋士・坂田三吉を演じ一世一代の名演と賞賛される。しかし大映は妻三郎との専属契約を解除、契約制に移行後契約を更新しなかった。
活動の場を松竹に移した妻三郎は『破れ太鼓』(昭和二十四年)など現代劇に活路を見出す。勝手の違う現代劇に臨んだ当時の妻三郎の涙ぐましいまでの努力と奮闘ぶりを物語るエピソードが伝わっている。台本を受け取った妻三郎は巻物のような長い紙に台詞を書き出して玄関から廊下、居間の欄間、風呂場、便所にまでそれを貼り出して独特の発声で暗記し、すべてをアタマに叩き込むまでセットに現れなかった。そんな妻三郎も『王将』の続篇『王将一代』撮影中に高血圧症で倒れて中断。数年後に再度同じ役柄に挑むがまたしても倒れ、シリーズ未完のまま昭和二十八(一九五三)年七月七日、不帰の人となる。享年五十一歳、本名田村傳吉、惜しまれる死だった。
片岡千恵蔵も現代劇に活路を見出した。遠山の金さんを演じられなくなった千恵蔵は、探偵がさまざまな人物に変装して難事件を解決していくというミステリー『七つの顔』(昭和二十一年)に主演。これがヒットして『多羅尾伴内・七つの顔の男だぜ』(昭和三十五年)まで十一本が作られる人気シリーズとなる。いかに変装の名人でもそれが千恵蔵であることは観客の誰もが百も承知、気付いていないのは登場人物たちだけという遠山の金さんと同じ設定はご愛嬌。そんなお約束の中で観客が待っていたのは「あるときは○○、またあるときは□□、はたしてその実態は・・・・」という千恵蔵のキメ台詞である。横溝正史原作『本陣殺人事件』の初の映画化『三本指の男』(昭和二十二年)でも、ソフト帽にスーツ姿という原作小説とはまったく違う現代風の金田一耕助を演じてこれもヒット、シリーズ化されて依然人気役者であることを立証した千恵蔵は、右太衛門とともに東横映画へ移籍する。
東横映画はもともと東急電鉄(当時は東横電鉄)資本をバックに戦前に設立された興行会社だったが、戦後は映画製作への進出を企図。その推進役として満州映画協会の理事だった根岸寛一を招聘する。根岸は戦前、日活現代劇部の多摩川撮影所長として数々の傑作・力作を生みだす立役者となったが、かつて一時期根岸興行部が松竹傘下にあったことを理由に裏切り者のレッテルを貼られ、これを機に日活を退社。大陸に渡って満州映画協会の専務理事となり、理事長として赴任してきた甘粕正彦のもとで働くことになる。敗戦後は公職追放の処分を受けていたため代わりに製作部門を牽引できる人物として牧野満男に声を掛ける。根岸とともに大陸に渡った満男は満映の娯民映画部長を務めていたが終戦の二年前に内地へ戻り、その後はくすぶっていた。
東横映画の製作部門トップに就いた満男は、さっそく満映からの引き揚げ映画人や旧マキノ(その中には満男の実兄正博もいた)、旧日活所属のカツドウ屋たちをかき集め、大映京都第二撮影所(現在の東映京都撮影所)を借用して製作をスタート。自社の配給網がなかったために当初はなかなか収益を得られず苦しい経営が続いたが、『いれずみ判官』『きけ、わだつみの声』(ともに昭和二十五年)が大ヒットするなどして徐々に業績を伸ばし、翌年大泉映画と東京映画配給を合併して東映京都撮影所を設立する。対日講和が発効し占領政策からの開放が近づくと、「もうええやないか、二三人斬ってみィ」という満男の伝説的な号令とともに時代劇の量産を開始。右太衛門の当たり役『旗本退屈男』の戦後版第一作『旗本退屈男前篇・七人の花嫁』(昭和二十五年)を皮切りに再スタートした人気シリーズや、『大菩薩峠』(昭和二十八年の渡辺邦男監督版、及び昭和三十二年~三十四年の内田吐夢版)の千恵蔵を軸に、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵ら若手スターの台頭もあいまって空前のチャンバラ映画黄金時代を築いていく。マキノ雅弘(正博改め)も自作『浪人街』のリメイク『酔いどれ八万騎』(昭和二十六年)をノー・ギャラで、しかもたった一週間で撮り上げて経営危機脱出に貢献した。それもこれも「喧嘩もしたがやっぱり兄弟の血」(雅弘)だったからだという。
嵐寛寿郎は大映との専属契約が切れるとフリーとなり、昭和二十五(一九五〇)年、綜芸プロを設立して並木鏡太郎や萩原遼、中川信夫、荒井良平、池田富保ら戦前からの仲間を集めて『右門』『鞍馬天狗』など当り役を演じながら四十四本もの作品を製作。その後宝塚映画を経て昭和三十一(一九五六)年新東宝に入社、翌年『明治天皇と日露大戦争』に天皇陛下役で出演して空前の大ヒットを飛ばす。新東宝が倒産すると再びフリーとなって東映で工藤栄一監督『十三人の刺客』(昭和三十八年)に出演、千恵蔵や月形龍之介との共演は往年のファンを喜ばせた。その後も『網走番外地』シリーズ(昭和四十年~)や『緋牡丹博徒』シリーズ(昭和四十三年~)など東映の仁侠映画で脇役として活躍。さすがにチャンバラ映画への出番はめっきり減ったが『神々の深き欲望』(昭和四十三年)、『男はつらいよ・寅次郎と殿様』(昭和五十二年)、『オレンジロード急行』(昭和五十三年)に出演、元気なところを見せた。昭和五十五(一九八〇)年歿。